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タイトル :民族対立を調停する存在
配信日時 :2020/08/22(土) 06:00

本文:

『価値あるものと見なされるこの世の全ての楽しみと比べてみても魚とり
これに勝るものはなし』

『説教する人、物書く人、専制する人、戦う人。利益の為か、娯楽の為か、
いずれにしても最後の勝利者これ魚とり』
By トーマス・ダーフィー 「釣り人の歌」
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大井しょうぶです。


ところで、
20年以上前のあの時、香港に行った最大の理由は、
ある一人の男の存在である。

その男の育った街。
そしてenter the dragonという映画が撮られた街に
行ってみたかったのである。

今で言う、聖地巡礼というところか。

香港には、世界に対して圧倒的に突き抜けた存在がいる。
未だ、世界中が束になっても敵わない。(と私は思っている)

それが、「李小龍」という男の存在である。
彼の偉大さについて、少し語ってみたい。

結論から言えば、私は、
彼から多大な影響を受け、それは私の釣りにも大きく影響を与えている。

初めてenter the dragonを見た時の衝撃は、物凄いものだった。
それはもう、天と地がひっくり返るような、
今までの価値観の全てが粉々になるような衝撃だった。

男としての矜持のありかを意識しだす多感な時代の少年達にとって、
あまりにも鮮やかに、そして今までのどこにもない手法と思考で、
その道筋をスクリーン上で爆発させていた。

余談だが、
日本でもアクション映画はいっぱいあったし、
それは例えば、仁義なき戦いとか兵隊ヤクザとか、
座頭市とかの時代劇もそうだし、古くは日活のアクション映画もそうだろう。

で、その類の映画を見た後、映画館を出ると、
みんな肩で風きって目をギラつかせて歩くぐらい高揚した大人も多かった。
俺が最強だと。そう勘違いできると。

しかし、私に言わせれば、
そんなものは子供のお遊び程度にしか感じなかった。

日本のアクション映画のいわゆる立ち回りというのは、
だらけているし余分な動きが多すぎる。

他にも、
大山倍達の空手バカ一代とかも確かに面白かったが、
李小龍と同じ階層にはいない。

Enter the dragon を見た後では、その全てが色褪せる。

彼には無駄な動きが一切ない。
よほど研ぎ澄まされ計算し尽くされ、スピードとパワーが凝縮されているのである。
円運動と直線運動を極限まで突き詰めると、このように表出するのか、と、
ただただ唖然とするだけである。

それからというもの私は、
堅い木でヌンチャクを作り、身体中があざだらけ。
学校の行き帰りは、その怪鳥音を轟かせる。
休み時間は、体育館の道場で後ろ回し蹴りの練習で足は引きつる。
どうにか、同じ動きが出来ないものかと七転八倒した。

何が彼を唯一無二の存在にしているのだろうか。

その一つの理解として、
アジアの最大のヒーローであると同時に、
世界の少年たちの「共通言語」として機能している存在だということが言える。

何年か前、TVで戦場のカメラマンと呼ばれている男がこう言っていた。

「ブルースリーの真似をすると、現地の少年たちと
立ちどころに仲良くなれるんです」

と。

そこは戦場であり、
明日の命の保証はない少年たちである。
日本人なんて信じられる存在ではないことは明らかだ。
しかし、あの構えをして、あの奇声をあげると、
少年たちはすぐにそれ以上のパフォーマンスを路上で繰り広げて答えてくれる。
そして、分かり合えるのである。

これほどのポップな存在がいったい世界で他にいるだろうか。

よく、映画評論家気取りの人間が、
さも分かったように軽い表現でその評価を終わらすが、
私から言わせれば、それは洞察力がなさすぎである。

あの奇声や派手なアクション、単純なストーリーは、
計算し尽くされた表現技法である。戦略として。そうとしか考えられない。

何十冊という彼にまつわる本を読破し、研究もしたが、
武道家としての彼は、
もっと実戦に徹していて派手さはない。
ストリートファイトに徹している。

ワンインチパンチやストレートリードという
無駄をとことん削ぎ落とした技は、究極の実戦的理論の賜物である。

例えば、
Enter the dragonで、オハラと対する時の技のスピード。
あまりに速すぎるので、そこだけフィルムをスロー再生処理をしていると、
夫人のリンダ・リーは証言している。

それを可能にしたのは、
身体的訓練の賜物であるが、同時に、その背景に沈む彼の思考の深さである。

あのシンプルな究極に無駄を省いた一瞬の動きの中に、
彼の思想が見事に表現されている。

つまり、
表に出ないところの突き詰め方が、究極なのである。
商業的なパフォーマンスも難なく受け入れ、それを最大限にする。
それは、技だけでなく思考に置いてそうである。
どれほどの柔軟でしなやかな思考を持っていたかが分かる。
分裂的な現実を受け入れ消化し、最大限の表現を持って世界に打って出る。

だから、突出する。世界を突き抜ける。

ーーーー

2019年の7月に、
日本で、「ブルースリー その栄光と孤独」
と言う本が再刊行された。

その後書きで、著者の四方田犬彦さんはこう書いている。

「また、激化した民族対立を調停する象徴的存在として、
その存在のあり方が再発見、再評価されている」

ん〜、なるほど。

戦場の少年たちと、瞬時に仲良くなれる共通言語は、
私は、彼を置いて他にいないように思えて仕方がない。

調停してしまうのである、世界の少年たちを。
しかも、あのアクションの一発で。

このことの凄さ。
このことの偉大さ。
一撃必殺。

古今東西の天才たちをいくら集めても、
可能かどうかは、疑わしい。

いったい、他に誰が代われるのだろうか。

なんと言っても、
人生で一番希望を持てるその時期の、
感性豊かな、いずれはは世界を形作らなければいけない少年たちの
曇りのないエネルギーを間違った方向へ導かせないためにも、
そして、共通認識としての「男としてのあり方」さえも、
私は、あのパフォーマンスから学び取れると確信しているのです。


私は、香港という街が大好きである。
人種のるつぼ。
独特の香辛料の匂い。
ごった返した街並み。
生き抜くエネルギーを持った街。
タフな思考。
しなやかなしたたかさ。
自由と猥雑さの街。
世界金融と物乞いの街。

私の知る限り、
香港のような街は世界中探してもどこにもない。

街が、一つのうごめく生き物として存在していた。
そういうことが、はっきり分かる都市であり街だった。

沢木耕太郎が描いたような活気はもうないのかも知れない。
当然、ブルースリーが少年時代を過ごした時とは、
大きく違うと言っていいだろう。

20年前、私は香港に行ってよかったと思う。
沢木耕太郎と同じような熱気と猥雑さを肌で感じだ。
こんな街なら、一生飽きることはないよな。
そう、思える熱量があった。

あの香港が、あの廟街が、
うら寂しい通りとなったことを聞くと、
何ともやるせない気持ちになる。

何か、大切なものをまた一つ失ったかのような喪失感が消えない。

今、香港はどうなんだ。
これから、香港はどう生きていくのか。
私には、世界的な喪失であると思える。


で、要するに、
何が言いたいのかというと、

私はあのような釣りをしたいのである。
一撃必殺の釣りを。
ワンインチニンフィングを。

最後に、
完全版のEnter the dragonのオープニングでの
李小龍と老師とのやり取りを紹介しておこう。

ロイ
「武術の最高の境地とは何か?」
リー
「形のない技です」
ロイ
「その通り、敵と相対した時どんな感じだ?」
リー
「敵はありません」
ロイ
「どういう意味だ」
リー
「自分が存在しないからです」
リー
「良い武術家は形式にこだわらず、武術を自分の体に融かします」
ロイ
「敵とはただの幻想だ、真の敵はその後ろに隠れている。
幻想を消せれば、敵の本体も消せる」



私に言わせれば、
これぞ究極の釣りの境地である。











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